
今だに彼の小説を「恋愛小説」だと思っている人が多くて、がっかりしてしまいます。それに、小説の中の筋書で内容を判断する人にも辟易してしまいます。筋書でいけば、「国境の南、太陽の西」などハーレクインだということになるのでしょうが、あの小説が言っていることは誰がどうした、ということでないことは明らかだと思うのですが。私はあの小説がとても好きで、ぜひ英訳も出てほしいと思っています。今英訳で出ているのは、どちらかというと「羊をめぐる冒険」とか「世界の終りとハードボイルドワンダーランド」のような筋書と展開が面白い作品に片寄っているように思うからです。
何年間もずっと外国で暮らしていて、それがとても彼らしいやり方だと思っていたので、日本に帰った彼がこれからどうなっていくのかちょっと不安ですが、同じ空間から彼が生み出していくものをこれからも受け止めていきたいと思います。
ところで、今私は東京の国分寺に住んでいます。そうです、彼が昔ジャズ喫茶をやっていたというところです。ここのところ数年で、昔の面影がないほど急激に変わってしまいましたけど、それでも「ノルウエイの森」などを読むと、あの女子大は直子が行っていたところかしら、などと妙に現実感があって嬉しくなります。そして、毎朝「チーズケーキのような形をした僕の貧乏」らしき家を見ながら通勤しています。
彼の小説はさておいて、彼の書いた文章のなかでずっと気になり続けている文章があります。村上朝日堂の「文章の書き方」、村上朝日堂の逆襲の「バビロン再訪」、やがて哀しき外国語の「ロールキャベツを遠く離れて」です。これらは彼がいかにして小説を書くようになったか、どうすれば文章が書けるようになるか、ということを書いた文章ですが、すべてに共通するのは、文章を書くためには、「生きる」必要がある、ということです。そして、「最初の小説は、キッチンテーブルで書かれる」ということ、つまり、日々の生活を送りながら、それでも自分のなかで何かを書く必要が生じたとき、初めて文章は日々の生活のなかで書かれる、ということです。
これは必ずしも文章に限定する必要はなく、すべての「表現」ということにあてはまることだと思います。表現ということを志向するひとりとして、自分の生活を振り返ってみたとき、果たしてそれだけしっかり生きているのか、自分にとっての「そのとき」が訪れてくれるほどの密度で生きているか、と自問しつつ、生きています。