
今日、久しぶりにCDを買った。買ったのは、スラック・キー・ギターのシリル・パヒヌイ、ブルースギターのスキップ・ジェイムス、フラメンコ・ギターのパコ・デ・ルシア、それから日向敏文の計4枚。知っている人は知っているかもしれないけれど、常にヒットチャートを追いかけているような人にはまずわからないだろう。なんか、我ながらちょっと改めて呆れてしまった。
まず、4枚のうち3枚が実にギターであること。ジャンルは全然違うけれど、ギターはギター、やはり好きなんだと自覚せざるをえない。
でも、実はこれには裏があって、ついこの間読み終えた本にとても感銘を受けてしまったのだった。その本というのは私の大好きな駒沢敏器さんというエッセイストの「ミシシッピは月まで狂っている」(講談社)で、アメリカ音楽の源流を探るために、ハワイからアパラチア山脈、アイルランド、そしてミシシッピへと旅をする話だった。それが、単なる音楽の話ではない。実に、今までのアメリカの歴史すべてがそのまま音楽にも反映しているということがありありと示されている。いわば、歴史の生き証人として、ミュージシャンが登場するのだ。
それに、ルーツを探ることによって、本質的に音楽がどういうものであるか、ということが伝わってくるのである。それは、コマーシャル的なものではなく、あくまで自然発生的に、自分のため、家族のために、個的な空間で演奏され、聴かれ続けてきたもの、ということだ。そこには必然性があり、上辺だけでない力がある。
私が求めていたものも、ちょうどそういうものだった。コマーシャルでない本物、個的な空間で個的に演奏されるもの(だから、必然的にギターのソロになる。なんといっても、ギターはそういう条件に非常に適した楽器だから)。だから、今まで聴いたことがなかったブルースやハワイアンにも手を出してしまったのだった。それを聴きながら、まだ行ったことのないハワイの豊穰の島やミシシッピのデルタに思いを馳せてみる。なかなか遠くに行った気分で、悪くない。
しかしながら、でもやはり、と思う。駒沢さんも本の中で書いているけれど、音楽は「その土地で」聴かないと絶対にわからない。私もそう思う。その空気、太陽、湿度、匂い、風、雰囲気、いろんなものを感じながら聴いて、初めてその音楽を本当に聴いていることになるのだと思う。そういう本場の状況で聴けば理解できるとは私は思わない。理解できるとかできないとかの問題ではなく、環境すべてを含めての音楽なのだと思う。だから、音だけを取り出してCD化したものを聴いてもわかるはずがないのだ。
私が数ヵ月前スペインに行ったとき、少年合唱団で有名なモンセラート修道院で少年合唱のCDを買ってきた。それは美しくて、神聖な宗教曲なのだけれど、その場に行って鳴り響く鐘の音に身をひたし、篤く信仰される黒いマリア像に触れ、荘厳な聖堂の雰囲気を思い出せる私だからそれがどんな環境でどんなに荘厳に歌われたものであるか想像できるけれど、知らない人ならば単なるきれいな音楽としか聞こえないだろう。でも、決してそれは単なるきれいな音楽ではない。 そこにはその音楽の本質的な部分はほとんど抜け落ちてしまっている。むしろ、その音楽の本質は、音に残っていない、環境的な部分であったと思うのだ。
そう考えると、今私たちが音楽だと思って聴いているものほとんどすべてが、実は本質が抜け落ちたスカスカなものでしかないのだということがわかる。そう思うとかなり絶望的な気分になる。でも、やっぱり私はそれがどういう環境で生まれた音楽であるのかにこだわっていきたいし、自分の生活の中でも、自分で演奏するにせよ、人が演奏するのを聴くにせよ、そこに必然性のある、個的な空間で個的に演奏された「本物の音楽」に敏感でいたいと思う。
たくさんの人に支持され、膨大な数のCDを世界中で売り上げるポップスの力もすごいと思うけど、相変わらず、いやますます、私はポップスには疎くなりそうである。
(Oct. 5, 1997)