
建築を志すことにした。
特に大きな物が売れないこのご時勢、建築業界も不況なのだろうが、そんなことより
も自分のやりたいことを考えたとき、建築というもの以外考えられなくなってしまったの
だ。
大きなきっかけとなったことは、昨年バルセロナに行って本物のガウディを見てしまっ たことだろう。今まで見たどんな写真や本なんかより、本物の説得力は物凄いものが あった。造形と空間、そして現に人が住み、今も生きて機能している場所としての力 が、初めて私に建築というものが何であるのかを教えてくれた。
「建築」というものを強く意識するようになって、今までの自分も実はずっと建築にひか れつづけていたということを初めて自覚した。以前、私は写真に興味を持っていたの だけれど、実はその時も、自分では写真を見ることが好きだと思っていたのが、実は 写真のならべてある、美術館という空間が好きだったのだということに最近になって 初めて気づいた。自分の感じていることを正しく理解するということは、かくも難しい。 ずいぶん今まで回り道をしてきてしまったものだ。たとえ無駄にはならないとしても。
それから、図面というものに惹かれていたのもかなり前からのことだ。建築の写真集 や資料集(そんなものも無意識のうちに集めていたのだ)に載っている図面を見て は、そこから本物の建築の空間を想像してはどきどきしていたものだ。考えてみれ ば、紙上に書かれたものから本物を想像してみるという作業はずいぶん好きな人間 のようで、例えば私は実際に料理を作るより料理本を見て頭の中で料理するほうが 好きだったり、実際に旅行をするより地図を見て机上旅行をするほうが好きだったり する。だから、図面一つ取っても、そこからありありと実際の建築を見ることができる ようになったり、自分が思う建築を図面に書き表すことができるようになることだけで も、とても楽しいことだと思うのだ。
そして、芸術としての建築ということ。私は今まで、写真を学んだり、美術史を学んだ りしたこともあって、美術には結構親しんできた人間だけれども、美術というのは結局 のところ、飾って鑑賞するだけ、言ってみれば自己満足的世界のものでしかないとい うのがずっとひっかかってきた。それを本当に楽しむことができて、それで人生満足で きる人だったらいいのかもしれないが(そういう人たちを、芸術家というのだろう)、私 はそうではなかった。写真を焼いても、それを飾るだけ、見てもらうだけ、というのは、 自分にとって強い動機とはならないのだ。それに比べて、建築は本質的に社会性を 持つ。人に使われるためのものであるということが、単なる自己満足的芸術から自分 を開放してくれる。
第一次大戦直後のドイツに、バウハウスという芸術学校が設立された。その歴代校
長は全員建築家であり、その初代校長のグロピウスによる「国立バウハウス宣言」
は、こう始まっている。
「すべての造形活動の最終目標は建築である。」
すべての芸術は、建築というものにおいて初めて自己満足的世界から救済され、統
合されうるということを1919年の時点ではっきり明記されていることは、ある意味で
驚きに値しないのかもしれない。なぜなら、芸術というものは、決して単なる紙や金属
だけのものなのではなく、本質的には空間そのものだからだ。
建築というもうひとつの引き出しを増やして、この世界でより楽しく生きていくことがで きれば、嬉しい。
(Jun. 10, 1998)