
実に、7ヵ月のブランクを経て、突然のようにまたギターを弾き始めた。
さすがにこれ以上弾かないでいたら本当に弾けなくなってしまう、という限界が近づいたことで、やはり2年間かけてゼロから培ったものが無に帰してしまうのはあまりに悲しいので、失わないためにはまた日々弾き続けていくしかない、ということになった。
ほぼ同時期にやめていたラジオの語学講座をMDラジカセ購入と4月新開講を期に再び始めたのと併せ、飽くことなくいつやめるともなくひたすら続けていく日々が復活した。
しかも、夜に時間が取れないので、なんと朝今までより1時間早く起きての朝練である。
朝早く起きるのを何よりも苦手とする私が、である。
以前読んだ『朝出勤前90分の奇跡』という本の中で、「楽しみで早く起きたくなることを朝やるべし」と書いてあったが、朝早く起きてまでやりたいことなんて何もなかったから実行しないまま今まできた。
それが、ギターのためなら早く起きてしまうようになった。
本当に、起きられるのである。
驚きだ。
毎朝ギターを弾くことで、生活が白黒からカラーになり、いろんな希望が持てるようになり、自分の中でいろんなことが動き始めたのを感じて、この7ヵ月間自分がずっと冬眠していたことに気付いた。
本当に、音楽のない日々は、向上心も希望もなく、ただ腑抜けただけの日々だった。
いろんなことを結構やっていたはずなのに、自分の中に何も残っていない。
自分にとって、音楽は「生きる」ために必要なんだ、と思う。
昔、誰かが「昔は音楽をやるために生きていたけど、そうではなくて、生きるために音楽をやるんだということがわかった」と言っていた。
それはこういうことだったのかな、なんてちょっと思ったりする。
「生きる」、とは何なのか。
今私がここで言っている意味に一番近いのは、「永遠の時間を体験すること」、ではないかと思う。
永遠、というのはもちろんありえない。
遠慮がちにいえば、「永遠に近く感じる」ということだ。
もっといえば、長いとか短いとかいう感覚、時間の感覚を超越すること。
それができるとき、人は「生きている」と感じることができるのではないか、と思う。
そう感じることができた瞬間というのは、その人の中にずっと消えずに残っていく。
そういう体験を自らの力で作り出せるのが、私の場合は音楽だ、ということだ。
そういうことがわかったことが、この7ヵ月の空白の意味だったのかもしれない。
私が2年間目指し続けたヴィラ・ロボスが象徴していたものも、このことだったのだ、たぶん。
私が好きなウオン・カーウアイの映画を見ると感じること。
それは、「時間は一様には流れない」ということだ。
特別な意味を持つ永遠の瞬間、というものがある。
それがたとえどんなに短かったとしても、人はその永遠の1分を生きながらそのまま朽ち果てていくことができる。
それを、ただ「思い出」と言ってしまっては簡単すぎる。
それは、もっと深い井戸のようなものだ。
もう10年も前のことになる。
一度、私は音楽でそのような体験をしたことがある。
その時はバイオリンだった。
障害を持って生まれ、何年生きられるのかわからないと言われた人たちが20歳になった記念の会に呼ばれたときのことだった。
その人たちの前で弾きながら、いつか私は自分が弾いているという感覚を失っていった。
自分の発する音が、周りの空気の中にすうっと吸い込まれていく。
吸い込まれると同時に、自分の中から自然に新たな音が引き出されていき、その音も空気に吸い込まれていった。
音は、ただ自分の中を通り抜けていくだけだった。
あれは、明らかに私の力で成したことではない。
だから、再び同じ様な体験ができるとかしたいとか思う訳ではない。
ただ、あのような瞬間が「生きる」ということなのではないかな、と思う。
そして、そういう感覚を経験して知っている自分は幸せだと思っている。
「生きる」ために必要な音楽を、捨てないで生きていこう。
(Apr. 7, 1999)
-後日記-
その後、しばらくまた中断してしまったのち、また再び始めたので、今度こそ復活宣言してもよかろう、ということでここに載せることにする。
(Jul. 22, 1999)