
人にもよるのだろうが、一つの恋が終わって、すぐに何もかもを忘れるわけではない。
忘れようと思っても忘れられない、というのもあるし、忘れたくない、というのもある。
積極的に早急に忘れようとする人は、終わった恋にまつわるあらゆるもの(写真、すべてのプレゼントなど)をきれいさっぱりいっぺんに捨ててしまうかもしれない。
でも、直接もらったものでなくても、たとえば、一緒にどこかに行ったときに着た服(自分で買った服であっても)、一緒に食事をしたときに使った食器(以前から持っていたものであっても)、などなど、すべてのものにあらゆる思い出があるとき、それをすべて捨ててすべて新しいものに買い換える、というのは、経済的にも難しいことだし、それにそれまでの自分をすべて捨ててしまうようなことはなかなかできることではない。
そんなわけで、直接間接に終わった恋に関わったものたちと共に、その後の日々を過ごしていくことになる。
かつては、その人がいなければ自分の人生など成り立たないと思った、その人なしに、日々が過ぎていく。
辛くて忘れようとしていたいろんなことが、それほどの辛さもなく、むしろ暖かい幸せ感を伴って思い出せるようになる。
終わったことであっても、ずっと意味のあることとして価値が残っていくことがあることを知る。
そして、続くということが必ずしも絶対的な価値ではない、ということを知る。
そう思えるようになった頃、かつての様々な思い出を背負ったものたちが、まるでその役目を終えるのを見届けたかのように、ひとつ、ふたつと身の回りから消えていく。
いろいろなところに連れて行ってくれたバイクが、バッテリーが上がり、人に引き取られていった。
あの頃作った眼鏡が度が合わなくなり、新しい眼鏡に買い替えられた。
あの頃履いていた靴が、皮がぼろぼろになってしまった。
あの頃買った服が、さすがに流行も年齢も合わなくなって着られなくなってしまった。
こんな風に、ゆっくり、ゆっくり、ひとつ、またひとつと、恋というものは朽ち果てていくものなのだ、と知った。
確実に自分の中に残ったものがあることを知る頃、ゆっくりと恋の有効期限は訪れる。
思い出に物質的なものを必要としなくなったとき、やっと人はその恋を自分のものとすることができた、と言えるのかも知れない。
(Jul. 28, 1999)