まだ見ぬ誰か、ここではない何処か

何か、新しいことが見えてきそうになっている。
その分、今まで自分の中で拠り所にしていた何かが失われ、でもかといって新しい何かもまだしっかりつかめているわけでもなく、結果、中空に放り出されて宙ぶらりんな状態になってしまい、不安定極まりない。
でも、何かを作る前にはまず壊さなければならないし、何かをつかむためにはまず今持っているものを手から離さなければならない。
何かが大きく変わるためには、当然払わなければならない大きなリスクなのだ。

10年前、私にとっては非常に大きな出来事があり、そのことを境にして、自分の人生は一度終わり、これからの人生は余生である、と思った。
10年前と今とで、何が一番変わったか、と言えば、それまでは「誰か」に出会いさえすれば自分の人生が根本的に救われ得るとおめでたくも信じていたが、今はもうそんなことは信じていない、ということだ。
自分でさえ扱いかねているような難しい人間を救ってくれる人なんて、いるわけがないのだ。
やはり、自分のことは、自分で何とかしていくしかないのだ。
なんとかできても、できなくても、なんとかするしかない。

「誰か」に対する幻想は放棄したけれども、一方で、それに出会ったことで自分の人生が変わり得る「何か」と、そこに行きさえすれば根本的に自分が救われる「何処か」のことは、諦めたわけではなかった。
本当に好きになれるものを見つけ、自分がなすべき使命を感じ、100%の力で打ちこめることを見つけたいと、今でもまだ思っている。
でも、一方で、この「何か」に対する憧れも、「誰か」に対する幻想と同じ類のものではないのか、という気もする。
結局、その「何か」によって、どうしようもない自分という人間を、高いところに引き上げてもらえることを期待している。
たぶん、どうしようもない自分を正視するところからしか、何も始まらないのに。
まだ、自分は「何か」を期待している。

「ここではない何処か」に行き、出会うべき風景に出会えば、自分の人生が根本的に変わるのではないか、という期待も、捨てきれていない。
あれから、いくつも外国の言葉を勉強した。
そして、自分が入っていけそうな場所に、何度も通い、もしかしたら私の見るべき、出会うべき風景に出会えるのかも、という期待を抱きつづけている。
もしかしたら、出会えるのかもしれないし、出会えないのかもしれない。
でも、一体、自分は何を見ようとしているのだろう?
その土地に行くと、ここは自分のための場所ではない、と思う。
自分が探している場所はここではない、と思う。
でも、何故か不思議なことに、そこから戻ってくると、自分の心の中に、自分が求めているはずのものが、求めているはずの場所が、ぼんやりと残る。
何かが確かに繋がっている。
形而上と形而下で。
そう感じる。

でも、わかってきたのは、形而下の現実のどこかの場所に行きさえすれば、そこに住みさえすれば、全て解決する、という問題ではない、ということ。
どこに行っても、そこには現実の生活がある。
そして、現実の生活をするのは、同じ自分という人間だ。
同じ人間が生活をするのだから、場所を変えたところでそう変わるわけがない。
結局は、自分に向き合わざるを得ない。
そうわかってきた。

結局は、私とは誰か?
私が属する風景はどこか?
ということなのだ。

すべては、自分の中にあるのかもしれない。
遠くまで旅をする必要もないのかもしれない。
ただ、自分を見つめ、自分の声を聞き、自分がどこに行こうとしているのかを静かに感じればいいのかもしれない。
たぶん、私がこんなにも迷子になっているのは、自分が属し、帰っていける風景を持たないか、持っているとしてもあまりに希薄なせいなのだ。
やはり、人には自分が帰っていける風景が必要なのだと思う。
私は、今からでも、その風景をやはり見つけなければならない。
それが現実に存在するのか、心の中に存在するものなのか、それはわからない。
でも、たぶん、大した違いはないのだろう。
現実の風景だとしても、結局それは、そこに身を置いて、自分がどう感じるか、なのであるから。

いつか、「迷子」でなくなる日が、来ればいいと思う。

(Feb. 19, 2002)

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