
ゼルダ・フィッツジェラルドという人が気になるようになったのは、もうずいぶん前のことだ。いつだったかははっきり覚えていないけれど、私の好きな作家、村上春樹が、スコット・フィッツジェラルドが好きで翻訳もしているので、ちょっと翻訳を読んだり(実は、翻訳家としての村上春樹はあまり私は好きではないのだが)、「ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック」(中公文庫)という、村上春樹のフィッツジェラルドに対する思いを形にしたような本も出しているので、それを読んだことがあった。その「フィッツジェラルド・ブック」に、スコットの妻であったゼルダの話が1章だけ登場する。
私はスコット・フィッツジェラルドというアメリカの作家についてほとんど何も知らなかったし、興味もなかった。ましてはその奥さんのことなど知る由もなかった。それが、なぜ興味を引かれたかというと、彼女が最後には精神分裂病になり、悲劇的に死んでいった人だったからだ。そのときは、私は彼女の話を、村上春樹の「ノルウエイの森」のモチーフになった人ではないか、という思いで読んでいた。そして、そのまま私の心のどこかにひっかかっていた。
彼女がひとりの人間として私の前に現われたのは、去年(1996年)の秋のことだった。渋谷のパルコギャラリーで「ゼルダ・フィッツジェラルド展」をやっていることを偶然知り、これはもしかしたらあのスコットの妻のことだろうか、と半信半疑のまま、それでも絶対行かなければならないように思って、行ってみたらやっぱり彼女のことだった。そして、そこで初めて彼女が多彩な才能の持ち主だったことを知った。
そこに展示されていたのは、彼女が娘のために自分で作った紙製の着せ替え人形、水彩、油彩、小説の原稿、彼女の写真、等々。中でも、印象的だったのは、着せ替え人形だった。当時のアメリカで、娘に母親がそういった人形を手作りしてやるのが普通のことだったのか、私は知らない。でも、スコット、ゼルダ、スコッティー(娘)の3人のそっくりな人形と、まるでデザイナーのデザイン画のような洋服の絵を見て、それがあまりにもよく出来すぎているために、私には彼女がその非凡な才能を無理やり家族、親子という関係の中で発揮しようとした痛々しさのようなものが感じられた。
そして、もうひとつ衝撃的だったのが、彼女が27歳になって、非常に真剣に、プロになるつもりで、バレエのレッスンを始めたということだった。常識的に考えれば、たとえ小さいときにやっていたにしろ、大人になってからバレエのようなものをやってものにしようなどというのは無理な話である。それを、彼女は実に真剣に練習に打ち込み、結果的にはそれが原因ともなって精神分裂病に陥っていくのであるが、その突飛なことに大真面目に真剣に取り組む彼女の姿勢に、私は非常にショックを受けた。なぜなら、それは私にそっくりだったからだ。
私も、今ごろになって、真剣にギターを練習したり、いろんな学校に行っていろんな勉強をしたりしている。自分ではそれがなんらかの形でいつかは統合されていくのではないか、と楽観的に信じていた。今はまだだめだけど、そのうちにすべてがつながり、自分が進むべき道がはっきりと見えるようになり、人からも認められるプロになれるのではないか、と。それが、ゼルダのように、絵にしろ小説にしろ、明らかに人並み以上の才能があったのにもかかわらず、結局はそれがしっかりとした現実的な形には統合されることなく人生を終えることもあるのだ、ということを見て、必ずしもすべての才能は統合には向かわないのだ、統合されることのない断片的な才能は、社会的には意味のないものなのだ、ということを自覚しないわけにはいかなかった。
決して、悲観しているわけではない。諦めているわけでもない。でも、もしかしたら私も、ずっとこれからもなんらかの形で才能が統合されることなく、社会的に評価されたり自分のすべきことを自覚したりすることなく、一生を終わっていくのかもしれない、と思う。でも、そうなるとその統合されない断片的な才能はどこへいくのだろうか?社会的な評価が得られないとしたら、それはまったくの無価値となってしまうのだろうか?そうではない、と思いたい。統合されない才能にも、人に評価されない行為にも、意味や価値がきっとあるはずである。
この世的な評価を行動基準とするのは、やめるときなのかもしれない。
評価や結果を求めずに何かをするとしたら、いったい何のためにならできるだろう。それとも、何のためでもなく、ただ、やる、それだけだろうか。
あるがままに。そういうことだろうか。
あるがままに、淡々と生きられたら、と思う。
それでも、なお、いつかは自分の才能が統合される日が来るであろうことを、やはり願わずにはいられない。
(Mar. 23, 1997)